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劇団献身主宰の奥村徹也のブログ。愛想を振りまくtwitterと違い、1日平均アクセス数3の当ブログでは好きなこと、書きづらいことをたくさん書きます。右の猫がかわいい。
追いだされまして
2012年03月16日 (金) | 編集 |
いろいろと恥ずかしく面白みのないことを書くが

昨日はエンクラの追いコンがあって、それがすごく楽しかった。

こんな日ぐらい思い出に浸ろう、そう思い「思い出話」ばかりしていたのだが

止まらない。

思い出がありすぎた。

中学時代は皆無。

高校時代だって、その頃一番の友達だった奴とこないだカレー食いに行ったけど、会話は二十分くらいで止まった。「まあ、うん……」てな感じでナンをもそもそ食っていた。

だけど、エンクラでの四年間ってのは、それまでさもしい人生を送ってきた自分にとってその全てがハイライトで、ハイライトすぎて、10時間喋り倒してもまだ百分の一も話せてねえよ!ってな感覚だった。

そんなところで四年間という長さを感じた。

一つのことを一つの場所で続ける大切さを今更学んだ。

高校までも部活とか頑張ってきたけど、あれは有る程度「選択肢のない状態」に近くて、帰宅部とか幽霊部員はやっぱり嫌だし、「やって当たり前」だった。

でも大学は「選択肢が無限にある状態」で、帰宅部とかなくて、テニサーがモテて、演劇はださくて、そういった環境で続けてこれたってのは自分にとってものすごく意味があった。

中学より高校より大学での「今」が一番楽しい。

昔はよかった、と振り返ることが今まではあったけど、この四年間は「今」が一番楽しいと素直に思えた。

良い先輩と後輩のおかげだ。

素敵な追いコンをありがとう。

卒業生代表スピーチみたいなのやらされたけど、あんなに胸を張れるとは思ってなくて

そういう時間を過ごせたなあ、と思う。

これを踏み台に、もっともっと楽しい時間過ごせたらええなあ、と。

でもやっぱり一生付き合っていきたいと思える人たちがたくさんいて、なんか、よかった。

あざす。

これからは友達として関われたら良い。
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向かいの人
2012年03月05日 (月) | 編集 |
奥村ですが

また、僕が住んでるあばら家の住人の話をしようと思う。

前回は隣人だったが今回は「向かいの人」だ。

向かいの人は六十近いおじいさんだ。浮浪者のような目つきで、毎日深夜に帰ってくる。大家さんと旧知の仲らしく、おそらくこのあばら家に最も古くから住みついている。そして、大工である(らしい)。

自分の部屋が狭いからと言って、隣の空き部屋との壁をぶちぬいて一人だけ8畳近いスペースを確保している。僕の部屋の倍である。

「大工だから、自分でやったのよ」

と、言っていたが、大工だからと言って、仮住まいの壁をぶち破っていいのだろうか。よくないと思う。大家さんは何か弱みでも握られているのかと思うほど、向かいの人に対して寛容である。

深夜に大音量でAVを見だすのも考えものである。

しかもおそらくはDVDでなくビデオである。年代物である。音質に味がありすぎるのだ。

もちろん独身である。

こないだ近くの居酒屋で酒を飲んでたら、向かいの人が一人でやってきて店長に執拗にからんでいた。

謎の多い人物である。

勧誘に来た読売新聞の人に対して「俺は産経一筋じゃ!ずうっとな!」と言って追い返していた。むろん、向かいの人は産経、というか新聞を取っていない。

なんなんだろう。

向かいの人の後にシャワー室に入ると設定温度が47度になっている。

熱いだろうが。

不思議な人である。


不思議な人が多い建物である。


次は二階に住むチンピラの話をしようと思う。
自意識
2012年03月03日 (土) | 編集 |
久しぶりに書く、奥村です。

最近よく耳にするのは

「エンクラってなんかどれも同じ感じ……」
「早稲田演劇ってなんか同じ感じ……」

こんな声。
というか呟き。

大体こういうこと言ってる人って若い人なんだよな。若い、というか二年生ぐらいの人。

たしかにその通りだと思う。
少なくともここ二年ぐらいは、その通り。

一言で言うと「自意識」が芝居から溢れている。
「自分はこう思う」「自分はこんなことで苦しんでいる」「切ない」「悲しい」「死にたい」

そんな大学生にありがちなテーマで、学生会館地下が溢れている。

正確に言うと、こういった「ありがちなテーマ」はちょっと前からあった。
「恋心」とか「憂鬱げな気持ち」とかをテーマにした芝居はすぐ思いつく。

ただ、昔は(昔とか若い、とか使うのは恥ずかしい。たかが1~2年の違いで。でもわかりやすいから使う)それは芝居の根幹にあるだけで、それを前面に押し出すことはしなかった。

今は

「おら!俺は死にてえんだよ!」「憂鬱なんだよ!」「わかれよ!」「セックス!」

というのが前面に押し出されているのである。
これは、もう実感として、そう。

で、それがなんでかっていうと

「演劇をこの先続ける気がないから」だと思う。

「この思いを伝えたい!吐き出したい!」もしくはもう少しネガティブに「脚本なんか書けないから自分の思いを乗せよう!」という感じ。

前者は演劇を手段として
後者はとりあえずこの公演を成功させようという思いのみで

「この先演劇で食っていくんや!」という思いが無い。


続けていきたい人は身を削ってばかりではいけない。それで1本はなんとか作れるけどこの先5本10本とは絶対に作れない。テーマだけで100分の芝居が作れるようなものを、各々何十個も持っているわけないからだ。
だから、もっと先を見たなら、テーマを種として膨らませなければいけない。脚本技術の向上も必要だし、アイディアも必要となる。

僕が1、2年生の頃はそういう「続けていきたい人」が多かったなあ、と。
単純に、何本も作るから、私小説だけでは立ち行かない、と。

二十年の人生で私小説何本も書けない、と。


だから、最近のエンクラを観て「エンクラっぽい」「自意識の塊」とか言ってる人は大抵「意識の高い人」というか「ちょっと前まで早稲田で主流だった人」だ。もっと創作的なのを観たい人だ。
目指すものが違うのだから、今のエンクラとかを観てそのあたり釈然としないのは当たり前だ。
「最初で最後の1本か」「これから何本も作っていくつもりか」で作品におけるテーマの比重はどうしても変わってしまう。何本も作っていく人は、テーマだけで1本作ってもしょうがない、その後に続かないし。

そういうことだ。


僕としては、かなりどっちでもよい。
ただ公演に対する自分のスタンスがはっきりしているなら、たとえ少数派に回ろうとも、自分のやりたい作り方をすべきだと思う。

カラーボールの時、私小説的すぎて(今は食傷気味だけど)マイノリティだった気がした。
けど、作家で食っていくというのは間違いなく考えていなかったのでそれでよかった。

やりたいようにやればいいと思う。

現在の主流の方でやると周りが「またこのパターンかよ」とざわつくが
それは「自分意識高いっす」という、ただのバカなので、気にしない方がよい。



まあ演出方法とかはもっと考えた方がいいかもしんないけど。

おしまい。