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劇団献身主宰の奥村徹也のブログ。愛想を振りまくtwitterと違い、1日平均アクセス数3の当ブログでは好きなこと、書きづらいことをたくさん書きます。右の猫がかわいい。
自意識
2012年03月03日 (土) | 編集 |
久しぶりに書く、奥村です。

最近よく耳にするのは

「エンクラってなんかどれも同じ感じ……」
「早稲田演劇ってなんか同じ感じ……」

こんな声。
というか呟き。

大体こういうこと言ってる人って若い人なんだよな。若い、というか二年生ぐらいの人。

たしかにその通りだと思う。
少なくともここ二年ぐらいは、その通り。

一言で言うと「自意識」が芝居から溢れている。
「自分はこう思う」「自分はこんなことで苦しんでいる」「切ない」「悲しい」「死にたい」

そんな大学生にありがちなテーマで、学生会館地下が溢れている。

正確に言うと、こういった「ありがちなテーマ」はちょっと前からあった。
「恋心」とか「憂鬱げな気持ち」とかをテーマにした芝居はすぐ思いつく。

ただ、昔は(昔とか若い、とか使うのは恥ずかしい。たかが1~2年の違いで。でもわかりやすいから使う)それは芝居の根幹にあるだけで、それを前面に押し出すことはしなかった。

今は

「おら!俺は死にてえんだよ!」「憂鬱なんだよ!」「わかれよ!」「セックス!」

というのが前面に押し出されているのである。
これは、もう実感として、そう。

で、それがなんでかっていうと

「演劇をこの先続ける気がないから」だと思う。

「この思いを伝えたい!吐き出したい!」もしくはもう少しネガティブに「脚本なんか書けないから自分の思いを乗せよう!」という感じ。

前者は演劇を手段として
後者はとりあえずこの公演を成功させようという思いのみで

「この先演劇で食っていくんや!」という思いが無い。


続けていきたい人は身を削ってばかりではいけない。それで1本はなんとか作れるけどこの先5本10本とは絶対に作れない。テーマだけで100分の芝居が作れるようなものを、各々何十個も持っているわけないからだ。
だから、もっと先を見たなら、テーマを種として膨らませなければいけない。脚本技術の向上も必要だし、アイディアも必要となる。

僕が1、2年生の頃はそういう「続けていきたい人」が多かったなあ、と。
単純に、何本も作るから、私小説だけでは立ち行かない、と。

二十年の人生で私小説何本も書けない、と。


だから、最近のエンクラを観て「エンクラっぽい」「自意識の塊」とか言ってる人は大抵「意識の高い人」というか「ちょっと前まで早稲田で主流だった人」だ。もっと創作的なのを観たい人だ。
目指すものが違うのだから、今のエンクラとかを観てそのあたり釈然としないのは当たり前だ。
「最初で最後の1本か」「これから何本も作っていくつもりか」で作品におけるテーマの比重はどうしても変わってしまう。何本も作っていく人は、テーマだけで1本作ってもしょうがない、その後に続かないし。

そういうことだ。


僕としては、かなりどっちでもよい。
ただ公演に対する自分のスタンスがはっきりしているなら、たとえ少数派に回ろうとも、自分のやりたい作り方をすべきだと思う。

カラーボールの時、私小説的すぎて(今は食傷気味だけど)マイノリティだった気がした。
けど、作家で食っていくというのは間違いなく考えていなかったのでそれでよかった。

やりたいようにやればいいと思う。

現在の主流の方でやると周りが「またこのパターンかよ」とざわつくが
それは「自分意識高いっす」という、ただのバカなので、気にしない方がよい。



まあ演出方法とかはもっと考えた方がいいかもしんないけど。

おしまい。
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